姫路紹介<拾> 「ゆかた」は昔「下着」扱いだった!ゆかた祭りが出来たワケ!
「ゆかた」とは本来、下着と同様の扱いでした。ですので、昔はゆかた姿で外に出るなど、下着姿で外に出るのと同じことで「はしたない」とされていました。
では、どうして日本の夏の風景に、ゆかた祭りや浴衣で出歩く人々の姿を見ることが出来るのでしょうか?
時は江戸時代中期。1742年の姫路藩三代目藩主・榊原政岑の時代に遡れば、ゆかたが夏の風物詩になった理由がわかります。
榊原政岑は旗本の大名でした。なかなか自由に生きる男で、賭け将棋に吉原通いといった派手な立ち振る舞いをしていました。時の将軍・徳川吉宗は倹約令を出しているのにも関わらず、将軍より目立つ姿で江戸城大手門の警護に当たったり好き放題です。
更に吉原で気に入った高尾太夫を身請けするのですが、当時の身請け相場は300両ほどなのに、政岑は2500両で身請けをし、高尾太夫の為に屋敷を建てて、遊女2000人とどんちゃん騒ぎをしたそうです。
江戸から参勤交代で姫路に帰るときも、高尾太夫を連れて通常15日の道のりを、途中で有馬温泉に寄ったりしながら1ケ月もかけて帰ってきたそうです。政岑は高尾太夫を姫路城内西御屋敷に住まわせて、ついでに有馬から連れて帰ってきた女性も同じ場所に住まわせましたが、とうとう政岑の振る舞いにしびれを切らした吉宗に懲罰転封先として知られる越後高田への転封を命じられます。
転封前に、政岑は庶民も気軽に長壁神社に参拝出来るように、長源寺の境内に社を移しました。
夏至の日の6月22日遷座祭が行われることになりましたが、式服をもつ町人が少なく、作る間もないため、参加を見合わせるものが相次いだのです。それをきいた政岑は、町人が遷座祭に浴衣姿で参加すること認めました。当時の人にとって「ゆかた」は「下着姿」です。常識で考えればありえない提案ですが、ゆかたは庶民でも誰でも持っている服でした。町人たちは、殿様のお許しもあることだしと遷座祭にゆかた姿で訪れました。以降毎年、例祭に参拝する人々はゆかたを着て行ったことが「ゆかた祭り」の由来だと言われています。
史実では、政岑は例祭の半年前に高田に転封をなっています。政岑を慕っていた領民が後付けしたという説がありますが、下着姿で例祭への参加を許可したなんて、とっても自由に生きた政岑らしいエピソードだと思います。
姫路から始まったゆかた祭りは、徐々に全国に広まっていきました。ゆかた姿が夏の風物詩になったのは、この姫路のゆかた祭りに由来します。