姫路紹介<伍> 千姫 数奇な運命に翻弄された生涯
戦国時代から江戸時代にかけて、数奇な運命に翻弄された一人の姫がいます。名前を千姫といいます。
千姫の父は徳川幕府2代将軍徳川秀忠。母は織田信長の妹・お市の方の3女である江姫です。京都の伏見で生まれた千姫は、豊臣秀頼の妻として1603年の関ケ原の戦いの後に大阪城に入城します。当時、千姫は7歳でした。
※関ケ原の戦い(西軍:後の夫 叔母(義母)VS東軍 祖父 父 の戦い)の後、豊臣秀吉が存命のころに決められた約束によって、秀頼(12歳)のもとに千姫(7歳)が嫁ぎました。
夫婦仲はとても睦まじかったといわれていますが、1614年大阪冬の陣が勃発。
一時は和議を結んだものの翌年の1615年大阪夏の陣で豊臣家が滅亡。最愛の夫を、祖父・徳川家康と父・徳川秀忠が起こした戦で亡くしてしまいます。
千姫自身は、祖父・家康や父・秀忠から可愛がられ、また、弟・家光とも姉弟仲がよかったこともあり、徳川家康の命により炎に包まれ、落城する大坂城から救出されます。そのときに起きた事件は「千姫事件」などとても有名ですよね。
祖母であるお市の方の美貌と聡明さを受け継いだ姫は、時を置かず本多忠刻と再婚します。結婚の翌年には本多家が桑名から姫路に国替えになった際に、千姫は忠刻と姫路にやってきました。当時の千姫は「播磨姫君」と呼ばれ民衆に大歓迎されました。
姫路城三の丸には武蔵野御殿と呼ばれる千姫の屋敷も建てられたといわれています。現在は千姫ぼたん園となり、毎年5月に多くの観光客の目を楽しませています。
そんな千姫が暮らしていた場所が姫路城内に残っています。姫路城の西の丸。崖に沿うように建てられた「西の丸長局(百間廊下)」と「千姫化粧櫓」です。千姫は毎日、西の丸から見える男山の天満天神に家族の件古祈願を拝んでいたといわれています。そして千姫が屋敷から西の丸へ移動の間に、休憩に使った櫓が「千姫化粧櫓」と呼ばれています。
千姫はこの姫路の地で勝姫、幸千代が生みますが、幸千代は3歳で病死。千姫はより一層熱心に天満天神を拝みますが不幸はつづきます。その後も流産を繰り返し、子宝に恵まれることはありませんでした。
千姫に降りかかる不遇に、秀頼の怨念では…との噂が立ちます。立て続けに夫・忠刻。母・江も死去。未亡人となった千姫は出家して「天樹院」となり、江戸に戻りました。
千姫が毎日手を合わせていた男山の天満宮には、千姫が奉納された美しい羽子板が残っています。千姫が姫路に居住していたのはたった10年でしたが、千姫の人気は凄まじく、彼女が江戸に帰るときにはたくさんの藩士や町人が泣きながら千姫を見送ったと伝わっています。